こんちは、めもぱんだです。
ヨルシカのEP「創作」より「春泥棒」の歌詞考察をやったったよ。
そのへんの徹底解説・徹底解釈を越える徹底ぶりの考察です。いやほんと。みんなの感想を欲するレベル。1回書いたの全部消して練り直したぐらいのヤツ。
おっくーううぅう
コーギーがかわいい!
「春泥棒」の歌詞
とりあえず考察のために歌詞の全体確認から始めましょう。
高架橋を抜けたら雲の隙間に青が覗いた
最近どうも暑いからただ風が吹くのを待ってた
木陰に座る 何か頬に付く 見上げれば頭上に咲いて散る
はらり、僕らもう息も忘れて 瞬きさえ億劫
さぁ、今日さえ明日過去に変わる ただ風を待つ
だから僕らもう声も忘れて さよならさえ億劫
ただ花が降るだけ晴れり 今、春吹雪
次の日も待ち合わせ 花見の客も少なくなった
春の匂いはもう止む 今年も夏が来るのか
高架橋を抜けたら道の先に君が覗いた
残りはどれだけかな どれだけ春に会えるだろう
川沿いの丘、木陰に座る
また昨日と変わらず今日も咲く
花に、 僕らもう息も忘れて 瞬きさえ億劫
花散らせ今吹くこの嵐は まさに春泥棒
風に今日ももう時が流れて 立つことさえ億劫
花の隙間に空、散れり まだ、春吹雪
今日も会いに行く
木陰に座る
溜息を吐く
花ももう終わる
明日も会いに行く
春がもう終わる
名残るように時間が散っていく
愛を歌えば言葉足らず 踏む韻さえ億劫
花開いた今を言葉如きが語れるものか
はらり、僕らもう声も忘れて 瞬きさえ億劫
花見は僕らだけ 散るなまだ、春吹雪
あともう少しだけ もう数えられるだけ
あと花二つだけ
もう花一つだけ
ただ葉が残るだけ、はらり 今、春仕舞い
うーううぅうが耳に残る、そんな歌。
いや、それだけじゃないんけれどすごくちゃんと聴かないと歌詞を見ずに聞き取るのは難しんだ。
歌詞考察の前に!「春泥棒」収録のEP「創作」について
「春泥棒」収録のEP「創作」は、前作のEP「盗作」とストーリーとして繋がりがあるよ。
それを知っておかないと考察が分かりづらいからちょこっと書いておくよ。優しい。
EP「盗作」の男が書いた歌詞
この「創作」に収録されている曲は設定上「盗作」の主人公であった男が作ったものである。
男は結婚して幸せに暮らしたものの妻が死んでしまったた反動で音楽の盗作を始めた。
そしてその「盗作」の後に作ったのが「創作」なんだ。
様々なメタファー(隠喩表現)に注目!
EP「創作」や前EP「盗作」では、前述のようなメタファー(隠喩表現)がいたるところに散りばめられているよ。隠喩ってゆーのは比喩表現(例え)のうちの1つで、例え話をするのに「まるで~のようだ」などの例えの表現を入れないヤツだよ。例えていることを察してくれということ。
「春泥棒」の歌詞の通りに情景を浮かべてみると違和感が残るんだけれども、その正体が隠喩というやつであるんだよ!
「盗作」の男とその妻の物語
「『盗作』の物語の中において、桜とは妻の生命のメタファーでもある」とn-bunaは語っている。
EP「創作」においてもこの法則は同様で、桜は妻の生命を表しているんだ。
つまり、桜を題材にした「春泥棒」の主な登場人物は「盗作」の男である夫とその妻の二人ってこっちゃね。
MVでもこの夫婦が描かれているよ。
「春泥棒」MVをちょっと考察
「春泥棒」のMVは「盗作」の特典小説をモチーフにして作られていて、1人称視点の妻の目線で物語が進んでいくよ。
内容を簡単に言っておくと、妻は自分が死に近づいていることに気づき、夫との思い出が走馬灯のように映し出されていくとゆー感じのだよ。二人で行った夏祭りの帰りの電車、かつて二人で見た花火などが思い出として登場しているよ。ちなみに、夫の持つ本は春の終わりを歌った山口青邨(やまぐちせいそん)の歌集。
「春泥棒」のMVは歌詞考察では補助的なものにしかならないから。
あまり触れないけれどコーギーがかわいい!
あとすごく練り込まれていてこれはこれとして考察しがいがある作品。
「春泥棒」歌詞考察
命を桜に例えた歌。
桜に例えているのに歌詞中では「桜」というワードは一切出ない。
MVではガンガン桜だしまくるけれどそれは置いておいて、あくまで桜に例えているのみで「命」の歌であるから「桜」というワードは出さなかったのかもしれない。
花=寿命 風=時間
n-bunaによるとこの曲では、花は寿命、風は時間に例えているというようなことをツイッターにてコメントしている。
ちなみに、このツイートは口調などから察すると前EP「盗作」の主人公の男としてコメントしたもの。
1番は死に向かっていく歌詞
高架橋を抜けたら雲の隙間に青が覗いた
最近どうも暑いからただ風が吹くのを待ってた
最初は小説とかでよくある空の比喩。高架橋と雲は青を邪魔する悪いことの例えで、苦難を越えたら少し良いこと(青)があったてこと。
でも相変わらず調子が悪い(暑い)からやる気も気力もなくて風=時間が過ぎるのをただただ待ってた。
木陰に座る 何か頬に付く 見上げれば頭上に咲いて散る
気づいたときには妻は死に向かっていた。
サビでさらに死に近づく
はらり、僕らもう息も忘れて 瞬きさえ億劫
さぁ、今日さえ明日過去に変わる ただ風を待つ
だから僕らもう声も忘れて さよならさえ億劫
ただ花が降るだけ晴れり 今、春吹雪
息をすることも忘れ、まばたきもせず二人は見つめ合い、ただ時間が過ぎていく。
話すこともせず、さよならを言うことさえもない。
ただただ時は流れ、妻は死に向かっていく。
ちなみに、歌中では瞬きは「またたき」と読んでいる。
一瞬さえ惜しいという意味の感じかな。
曲調はかなり明るくて春にぴったりなのに歌詞をよく読むとネガティブ。
ネガティブというか抵抗できない諦めみたいなものも感じるよね。
意味が分かると怖い歌詞というやつでしょうか。いや怖くはない。切ない。
矛盾する「晴れり 今、春吹雪」の意味
「晴れり」の「り」は古文で使われる表現で「晴れている」という意味になる。
「春吹雪」は春先に降る吹雪のこと。
つまり、晴れているのに春吹雪が吹いているということになるんだ。
「花吹雪」と書いておけばキレイに情景描写できるところにあえて春の吹雪を叩きつけていることから、重要なワードであると考察できるね。
しかも、最近どうも暑くて、桜が散り始めていて、更に晴れているのに、春先に降る春吹雪が吹いている。
この矛盾は「春吹雪」がメタファー(隠喩)であることを示す。
晴れている中で、マイナスイメージを感じさせる春の吹雪は知らず知らずのうちに命の終わりが迫っていることを示しているんだろうね。
高架橋=病気 花見=お見舞い 入院中の主人公
次の日も待ち合わせ 花見の客も少なくなった
春の匂いはもう止む 今年も夏が来るのか
高架橋を抜けたら道の先に君が覗いた
残りはどれだけかな どれだけ春に会えるだろう
今日も夫は見舞いに来てくれるらしい。時が経つにつれ、見舞の客も少なくなった。
自分の死を直近に感じる。
病気の苦しみが落ち着いたところで夫がお見舞いに来てくれていた。
自分はいつまで生きていられるだろうかと考える。
結婚している上に、すでに死が間近である妻が花見の待ち合わせをするのは筋が合わない。
なのでこれも比喩だと考察できるよ。
花=命を見に来る客が少なくなってきたということ。
ここで出てくる「花見」は1番までのいきさつを踏まえると「お見舞い」のことだと考えればしっくりくる。
とすると1番にも出てきた青を邪魔する「高架橋」は「病気」のこと。
木陰=病院のイス 比喩の世界
川沿いの丘、木陰に座る
また昨日と変わらず今日も咲く
今日も妻の見舞いに行く。
そこには、今日も生きている妻の姿があった。
高架橋=病気 花見=お見舞い、となると歌詞に何度か出る「木陰」とは病院のイスと解釈できる。
これまでの解釈を当てはめてみてもこれでがっちり噛み合う。
比喩を解読していくことで、入院中の妻に会いに行く夫の姿が想像できたよね!
つまり、「春泥棒」の舞台は病院だったってこと。
ここの歌詞は「また昨日と変わらず今日も咲く花に、 僕らもう息も忘れて 瞬きさえ億劫」でひとつながりの文になっているよ。
妻→夫→「僕ら」の視点で書かれた歌詞
歌詞の中では1コーラスごとに妻→夫→「僕ら」と視点が変わっていき、双方の心情が描かれていると考察できるよ。
命を散らすように過ぎゆく時間こそまさに「春泥棒」
花に、 僕らもう息も忘れて 瞬きさえ億劫
花散らせ今吹くこの嵐は まさに春泥棒
風に今日ももう時が流れて 立つことさえ億劫
花の隙間に空、散れり まだ、春吹雪
息をすることも忘れ、まばたきもせず見つめ合う。
花(命)を散らすように過ぎていくこの風(時間)こそまさに「春泥棒」というべきもの。
時間は刻一刻と過ぎていくが、旅立ち(死)を受け入れることさえできない。
命は散っていくが、それでもまだ生きている。
「花の隙間に空」は空が見えるほどに花が散っていることだね。
まあ満開でも隙間から見えるけど。とか言わないの!
となると「空」というのは天国を意味していて天国に近づいているとも解釈できるね。
「立つ」は天国への旅立ち
「立つ」はそのまま「立ち上がる」という意味かとも病気で立てないとしてもこの二人の想いを描くサビパートにそれを入れるのは違和感。そして、1番の歌詞と照らし合わせると「立つ」は死別を連想する「旅立つ」で「死」を意味していると考察できるんだ。隠喩。
散れり まだ、春吹雪 の意味
「春吹雪」は前述のように、命の終わりが迫っていることを示しているんだけどもここの解釈は2つ考えられるよ。
- 「死に近づいているが、それは死んだわけではなくまだ生きているということ」というポジティブめな解釈
- 「死に近づいているというのに、まだまだ状態はひどく止められない」というネガティブ解釈
迷ったらポジティブ!
死の寸前、それでも会いに行く
今日も会いに行く
木陰に座る
溜息を吐く
花ももう終わる
明日も会いに行く
春がもう終わる
名残るように時間が散っていく
今日も妻に会いに行く。
溜息を吐いて座る。
明日も会いに行くと誓う。
近づく別れを惜しむように時間は流れていく。
ここはメロディ感的に夫視点の歌詞。
木陰に座るのも夫だしね。
愛
愛を歌えば言葉足らず 踏む韻さえ億劫
花開いた今を言葉如きが語れるものか
愛を歌にしようとすれば、言葉足らずになり、韻を踏むこともできないほどになる。
幸せな人生を言葉だけで語りきることもできない。
それほど愛し合っていて、今までの人生が素晴らしいものだったということ。
スゴイ良い歌詞だわ!ここ!
夫である「盗作」の男は作曲家だから、この歌詞は作曲家らしく、夫目線の歌詞であると考えることもできる。
しかし、メロディはサビに近くすでに夫視点の歌詞が出ているので、二人の想いを書いた歌詞であると考察する。というかそう思いたい想いが重い。そう思いなさい。
はらり、僕らもう声も忘れて 瞬きさえ億劫
花見は僕らだけ 散るなまだ、春吹雪
話すこともせず、この一瞬の過ぎ去りさえ惜しい。
散りゆく命を見つめているのは僕らだけ。
どうかこの時が終わらないでほしい。
あともう少しだけ もう数えられるだけ
あと花二つだけ
もう花一つだけ
ただ葉が残るだけ、はらり 今、春仕舞い
ここ意訳するとキレイにまとまらないからこのまま読んでくださいな。
このままが1番良い。
ここは誰視点の歌詞でもなくて、命が散っていく情景描写。つまり第三者の視点。
タイムリミットを感じさせる歌詞が別れを惜しむ二人の姿を見事に表現してると思うんだ。
最後にして最大の謎「ただ葉が残るだけ」の意味
「春泥棒」の歌詞考察において最後にして最大の謎がこの「ただ葉が残るだけ」という言葉。
「もう花一つだけ、はらり 今、春仕舞い」でキレイさっぱり終われたところに、わざわざ「葉」を残した。
まず、前述の通り、この歌詞パートは情景描写であり夫もしくは妻がかけた言葉でもないので、「ただ葉が残るだけだよ」のような慰めの言葉ではないと考察できる。
そして、「ただ~だけ」という言い回しからは「ただそこに葉が残っているだけ」のように、単にそこにある事実を示す意味で使われている印象を受ける。
花=寿命の隠喩であったことから、この「葉」も隠喩であるはず。
真っ先に思いつくのは、葉=体 だけれどもそれなら木や枝や幹のほうが噛み合うし。
体ではないとすると精神だと考えるのが妥当だと思うんだ。
この歌詞パートだけが、誰視点の歌詞でもなくて、命が散っていく情景描写。つまり第三者の視点であったことにも注目してみます。第三者とは「春泥棒」を作詞したn-bunaもとい「盗作」の男である。「盗作」の男、つまり亡き妻を想う夫が「ただ残っているだけ」と主張する「葉」とは「二人の想い」ではないだろうか。
歌にできないほどの愛も、語りきれない幸せも、過ぎ去った春の記憶も、ただ残っていた。
よし、良いこと言った!
まとめ
苦難を越えたら少し良いこと(青)があった。
でも相変わらず調子が悪い(暑い)からやる気も気力もなくて風=時間が過ぎるのをただただ待ってた。
気づいたときには妻は死に向かっていた。
息をすることも忘れ、まばたきもせず二人は見つめ合い、ただ時間が過ぎていく。
話すこともせず、さよならを言うことさえもない。
ただただ時は流れ、妻は死に向かっていく。
今日も夫は見舞いに来てくれるらしい。時が経つにつれ、見舞の客も少なくなった。
自分の死を直近に感じる。
病気の苦しみが落ち着いたところで夫がお見舞いに来てくれていた。
自分はいつまで生きていられるだろうかと考える。
今日も妻の見舞いに行く。
そこには、今日も生きている妻の姿があった。
息をすることも忘れ、まばたきもせず見つめ合う。
花(命)を散らすように過ぎていくこの風(時間)こそまさに「春泥棒」というべきもの。
時間は刻一刻と過ぎていくが、旅立ち(死)を受け入れることさえできない。
命は散っていくが、それでもまだ生きている。
今日も妻に会いに行く。
溜息を吐いて座る。
明日も会いに行くと誓う。
近づく別れを惜しむように時間は流れていく。
愛を歌にしようとすれば、言葉足らずになり、韻を踏むこともできないほどになる。
幸せな人生を言葉だけで語りきることもできない。
話すこともせず、この一瞬の過ぎ去りさえ惜しい。
散りゆく命を見つめているのは僕らだけ。
どうかこの時が終わらないでほしい。
あともう少しだけ もう数えられるだけ
あと花二つだけ
もう花一つだけ
ただ葉が残るだけ、はらり 今、春仕舞い
なるほどと思わされる考察が多く、こんな感性をお持ちであらせられるめもぱんださんが素敵だなと思いました。
考察の中にところどころ歌詞そのままの言葉を受け取ってもいいのではないかと思うところもありました。歌詞をどのように自分の気持ちに落とし込むかというのは個人の自由なので、それに対してどうこう言いたいわけでもなければアンチなわけでもないのですが、こう思う素人もいるんだな程度に思ってください。
最後の「葉」のところ、桜の花びらが散ってしまって、妻そのものであった春が仕舞いになってしまっても今度は葉桜が見ごろになって、妻がいなくなっても変わらず時はすすんでゆく、「今年も夏が来」てしまうことを男性はしんみりと思ったのではないかなと私は思いました。何かの隠喩としてとらえるのも素敵だけど、ふと上を見たときに、もう奥さんがいないことをようやく認識しているような、そんな気がします。
新参者が長々とすみません。これからも頑張ってください。楽しみにしています。
春一番さん、コメントありがとうございます。
めもぱんだも自由に受け取って良いと思います(*´ω`*)
歌詞の前半からも春の終わりだけじゃなくて、夏の到来も感じますね。
考える余地のある歌詞は素敵だなと思うます!
「ただ葉が残るだけ」の歌詞は、
2人の思いだけでなく、
妻が残していった言の葉を表しているのでは?
tunesumさん、コメントありがとうございます(´∀`)
葉=言葉 とするなら、その言葉は「春泥棒」の歌詞そのものになるのかな、と思うんですが、めもぱんだはなんかしっくりこないんですよねー。
ただ言葉(歌詞)が残るだけ
とすると、なんだか悲観的なだけで何も無くなってしまった印象なります。
愛する人を失った場面としてはイマイチ。
ただ想い(愛、記憶)が残るだけ
とすると、悲観的でも残ったものを大切に持っておくという印象になります。
こちらの方が曲のイメージとも合っているのかなと。愛や記憶が残っているからこそ歌詞も書けるわけですし。
迷ったらポジティブな方を選ぶのがめもぱんだ
深い考察をありがとうございます。歌の奥行きを感じることができました。
「ただ葉が残るだけ」の部分については、その前に想いを語りきるには足りないとした「言葉如き」しか残らない、残るのは「言の葉」=「葉」だけ、ということなのかと思いました。
jbtさん、コメントありがとうございます(*´ω`*)
「葉」=「言葉」というのは、めもぱんだも記事を書いたあとで思いついたんですが、残された言葉の中身が分からなくて…
コメント頂いたので改めて考えてみたのですが、この「春泥棒」(もしくは他の曲?)の歌詞が残された言葉だったりするのかなと
分かりずらい
近ずいている
「ず」ではなく「づ」です。
しかもつかずいているになってるし
こうさん、ありがとうございます!
修正しました
ZU が打ちやすくて(-_-;)
鳥肌がたった。考察してくれた主も神
こんにちは、神です。
ぶーさん、うれしいコメントありがとうです(*´▽`*)
まさかコメントが返ってくるとは。(*゚∀゚*)
一個質問なのだが、二番の『今年も夏が来るのか』ってどういう
意味だと思う?
今まで見てきた考察の中で一番よかった。これからも機会があればよろしくお願いします
記事中では、春の匂いはもう止む 今年も夏が来るのか=「自分の死を直近に感じる。」としています。
春が終わると桜=命は終わりを迎えるので「今年も夏が来てしまうのか…」という感じですね!
また、作詞のn-bunaさんは夏が好きなので夏が楽しみという意味もこめられているかも。
一番良かったで良かったです(*´▽`*)
本当、いい良いこと「言って」くれた!ありがとうございました。切ないですね。ヨルシカ表現素晴らしいですね
ここまで深みのある歌詞も珍しいですね!
表面的にも内面的にも毎度良い曲を作るなーと思うます。
天才 めっちゃ役に立った ありがとうございます
ああさん、コメントありがとうございます(*´▽`*)
書くのに2週間くらいかかったのでそう言ってもらえるととっても嬉しいです。
ヨルシカ良いですよね!
こんにちは、とってもいい解析書いてありがとうございます!
実は自分は台湾人なので
一度台湾の掲示板で春泥棒の考察を検索したんですが
あまりこういう深い解析は見つけないですね
こっちにもヨルシカの歌の深さを布教したいから
この記事を翻訳して、台湾の掲示板に貼ってもよろしいでしょうか!
しっかり出所も書きます!
もちろんダメたらやめますので、お返事よろしくお願いします!
ともえんさん、丁寧なコメントありがとうございます!
このページのURLリンクを書いてもらえれば、掲示板に貼って良いです。
ヨルシカを是非広めてください(*´ω`*)
なんかコメントじゃなくて返信のほうに押しちゃいましたw
許可ありがとうございます!
翻訳頑張ります!